くれおの発達障害ブログ

ADHDと軽度ASDを併発。精神安定のために自分の考えをまとめたりします。発達障害の自分を見つめ直す雑記。

発達障害は治る治らない論争を見て

こんばんは、くれおです。
タイトルの通りなのですが、最近ツイッターで「発達障害は治るvs治らない」の論争のようなものを見て、ただ思ったことだけを書いていこうと思います。
今回は長ったらしいので、読み流しでも大丈夫です。
治るわけないじゃん!とか治るわ!とか完全にジャッジする気はないです。


◆治るとか治らないとか

結論から言いますと、わたしはどっちでもいいかなって感じに思ってます。
なんでかって言いますと、治る治らないどっちかであっても、結果的に症状を改善させたり適応しやすい環境に身を置いて社会で生きやすくなることの方が大事だと思っているからです。
でも「治りませんよ」より「治りますよ」って言われたら断然後者に希望持っちゃいますよね。
そりゃそうですよね。
治らないって言われるよりか、治るって言われる方が心理的には明るい気持ちになるのが当たり前ですよね。

ですが、わたしは発達障害は治らないと考えている側の当事者です。でも改善したり緩和するとは思ってます。
ただ、治るわけではない。
目立たなくなるだけ。
そんな感じで生きてます。

なぜかというと、当事者としての実感だけではなく、現在の医療では発達障害は生まれつきのもので、周囲の協力や本人の努力等で改善はするが治るものではない、と言われているからですね。
努力でカバーはするものの少し気を抜けば結局元に戻ってしまう、治らないもの、そんな感覚なんです。
当事者とはいえお医者様ではないので、現時点で言われていることを信じています。
それに診断していただいた先生のことを信頼していますから。

治らないという諦めというより、単に現在においての事実として受け入れているだけです。
もちろん悲しいですけどね。
しかし、発達障害は治らないと言われていても、発達するところは発達し続けると感じてます。
無理なとこは無理ですけど。
治れば治るで社会で生きやすくなって助かるので治ってくれたら万々歳。
どっちでもいいです。

しかし、発達障害を無理に治そう、改善し過ぎようとするのもいけませんよね。
それはどんなこともそうだと思います。病気や怪我は無理やり治すことはできませんし。
それに発達障害の子どもや大人を責めたり、特性をなかったことにしてはならないのかなとは思ったりします。
特性や生まれつきのものを無視するみたいに、鉄にダイヤモンドになれって言われてもなれませんし、ダイヤモンドに鉄になれって言われても絶対なれませんし。
変な例えですかね?笑

◆どこまでいったら治ったと言えるの?という純粋な疑問

素直な疑問なのですが、発達障害が治るってどういうことなんでしょうか?
どこまでが治るで、どこまでが治ってないなんでしょうか?
普通に気になります。
凸凹がほとんどなくなって平均的にできることですか?
マルチタスクができるとか、過集中がなくなるとか?
対人コミュニケーションが前より良くなって社会で生きやすくなることですかね?

それとも、ADHDの人であれば、忘れ物は一切せず、遅刻ゼロ、先延ばし癖もすべて無くなり、片付けをできて、注意をすべてに向けることができて、頭の中はとても静かで、衝動性もなく冷静に判断ができて多動も全く見られない。
ASDの人なら、こだわりは一切なく、対人関係に問題は見られず、共感性に秀でている。
感覚過敏を持っている方なら、それがなくなる。(感覚過敏が治る?)
LDの人なら文字を完璧に認識できて、すぐに書けるとか?

いかにも極端思考な考えしかできないわたしですが、煽りでもなんでもなく治る側の意見の方々の発達障害が治ったの定義を知りたいのです。
どうせなら生きやすい方がいいじゃありませんか。

治る側の方々の考えとしては、こういった発達障害の特性が一つも見られなくなったことを治ったといっているということなんでしょうか?

でもそうとなると、生きている間に一切忘れ物をしないとか、いつも冷静でいるとか、こだわりが全くないとか、人間関係に全く拗れがないとか、定型発達の人でも難しいことがあると思います。
その頻度を減らしていったり受け入れてもらうことで生きやすくなるならいいのですが、それを治ったと定義するのなら分かる気がします。
完治したという考えなら、再発はありませんよね。
でも治すってことは再発も起こりうるってことですしね。

上記みたいに完全に治ってミスせずに完璧に生きれたらどれだけありがたいかなあ。相当無理に近いです。笑

治るって言葉はとても希望に満ちてますが、いまいちわたしとしては、発達障害が治るっていうのがよく分かりません。
治る側の意見の方を否定するわけではないのですが、治るの基準がいまいち難しい。

完治なのか治癒なのか寛解なのか?

薬を飲んだり対策をしたりして症状が改善するとか緩和するとか、環境で症状が目立たなくなる、なら全然分かるんですよね。
ADHDの方なら周囲の理解と協力、本人の努力で忘れ物や遅刻が減るとか、うまく調整するとか。
聴覚過敏の方であればイヤーマフをつけたり、症状が目立たない環境に身を置くとか色々と。

発達障害を治すって、脳を上手にいじくりまわして定型発達と呼ばれる人たちの脳に近づけてドパミンやノンアドレナリン等の報酬系を適度に分泌させたりするってこと?
うーん、分からない……。
これじゃあロボトミー的発想ですよね。笑
発達障害をもし治せるとしたら定型発達になれるのでしょうか?
定型発達すらミスをするのに、発達障害を治すの定義を完治の意味とするとおぞましいですね。
発想が極端。笑
こんなことされたら辛すぎて辛いことすらわからなくなりそうです。笑

発達障害って発達障害だけの問題?

そんな感じで頭をぐるぐる回していると、発達障害の困りごとって彼らの中だけで起きてるわけではないと思うんですよね。
わたしとしては、定型発達と発達障害の間で起こる価値観の違いや感覚の違いでズレが生じて、社会で生きづらくなっているところがあると思います。
マジョリティの人たちはマイノリティの感覚に気づき辛いですし、正直仕方ないところもあると思います。
わたしだって発達持ちですけど、よりマイノリティの人たちに気づかずにあぐらをかいていたり当たり前を押し付けているでしょうしね。汗
実際そういうことしちゃって悲しかったし申し訳なかったです。

こういうズレみたいなのって相対的なもので、発達障害そのものが問題というよりも社会と発達障害の間にあるズレが問題なんじゃないでしょうか?
それがズレにズレすぎた結果、個性では済まされなくなり、障害と呼ばれていくと思います。
発達障害は個性って意見もありますよね。
それはそれでありがたいし幸せな考えですね。
それを許して円滑に生きれる社会であれば個性でありたいものですが、現実はそうじゃないから引きこもりや自殺者やいじめが起きるんですよね。
でも障害として受け入れるか個性として受け入れるかは本人の気持ち次第ですから、何も言えませんね。
発達障害は個性だ!とか障害だ!と押し付けるものではないのかなってネット上を見ていると感じてます。
個性と許されている環境や、本人次第の気持ちな気がします。
片方だけどうにかすれば良くなるわけでもなさそうですね。笑

◆食事療法で発達障害が治るとか見て

ちょっと話を変えて、最近食事療法で発達障害が治るみたいな話があるみたいです。添加物がどうとかなんだとかそれでみんなグルテンがどうとかなんとかで論争したり。グルテンフリー?でしたっけ?
わたしは欲望に忠実なためポテチを食べてます。コンソメパンチがお好き。
いや、そんなことはどうでもいいです。笑


その食事療法で発達障害が治るかどうかは分からないのですが、ほどよい食事療法だったら健康が保たれるし全然いいですよね。
別に発達障害じゃなくても食事に気をつけている人は健康になりますしね。
なんにせよ、それで症状が少しでも安定して生きやすくなったっていうのならそれはそれでいいんじゃないでしょうか。
治すとか改善どうとかじゃなく、とりあえず生きやすくなってそれで安心する方が大事だと思うんですよね。
別に無理に真似したり食事療法が必要なわけではなくて、うまくいくことが大事なんだと思います。
これは学校の相談室の方からいただいた言葉で、真似することより上手くいくことをやりましょうってことでした。

◆適当なまとめ

発達障害は治るという言葉を見て思ったのは、治るという言葉に踊らされて、治るという意味の定義が曖昧な感じがしました。
治るの意味の解釈が人それぞれというか、一人歩きしてるような感じもあります。
わたしとしては、発達障害はゆっくりと発達し続けて、症状が見えづらくなったり、対策をうまく考えられるようになったりすることで定型社会に適応できるようになっていく、みたいな感じだと思ってます。
もちろん、定型社会に完全に馴染んで言いなりになれとは言えないです。
てか無理ですよ。泣
ただ時代的にそう簡単に発達障害を受け入れてくれるわけでもないですよね。
もちろん受け入れてくれるところはきっとありますが、都会ならまだしも田舎は難しいですね。

でも、これから生まれるまたは生まれている発達障害の子どもたちが、より生きやすいように居場所のある未来を作っていったり、時が来るのを待たなければならないのかもしれませんね。
一歩ずつ理解してもらったり知ってもらうしかないんです、きっと。

本来であれば、一人一人に合った社会ができれば幸せですよね。
相当難しいですけど、そんな社会があったら生きてみたいって思いませんか?
たくさんの当たり前とたくさんの普通がある、普通の定義が広まったそんな生きやすい社会になって欲しいと願っています。

では!