くれおの発達障害ブログ

ADHDと軽度ASDを併発。精神安定のために自分の考えをまとめたりします。発達障害の自分を見つめ直す雑記。

差別と区別とまちがえて。思い出が蘇る。

こんばんは、くれおです。

世の中にはたくさん違うものが存在しますよね。
それらはカテゴリ分けをされて、これはこういうもの、それはそういうもの、と区別されています。

そのときに、違うという理由で差別になる事があります。
持論ですけど、区別はわかり合うためのもので、差別は不当に扱ったり低く見たりするものなのかなって思います。

たとえば違う文化と思うものって、最初は偏見でおかしいって思うかもしれないけれど、そこにはその文化なりの尊敬が隠れていたりするのです。
その文化の考え方に至った理由が間違いなくあるって思うのです。
その土地で息を吸い、笑い、泣き、生きた証拠とともに住んでいたりすればわかることがあると思うのです。

それを知らない人たちが変だと思って低く見て、区別ではなく差別をします。
そして、わたしはその差別する人たちに含まれるということも忘れてはいけないんです。
私は差別します。偏見もあります。
わたしはこだわりが強く偏見しやすいです。それに、失言しちゃうし……。なんて、いつもぐちぐち書いていますが、何度も書いているうちに消化できるかな、悲しかったこと。
色々な気持ちが溢れ出すわけですが、分からないことを区別するために教えて欲しいし、知りたいと思ってしまうんです。
でも傷つけたから許されはしないでしょうし、自己保身のためにいい人アピールするのも嫌になっちゃう。
ほんと自分勝手で性格悪い人間だなって、つねづね感じるんですよ。
ほんとにだめ人間だって。

こうやって文化について話していると、去年のことを思い出して胸が痛みます。あの頃のわたしは何もわかっちゃいなかったし、孤独感ゆえにいい子ぶって、発達障害だからという理由でなにもかも逃げ出して。

ブログは書いてはいますが、あの頃は自動車免許を取らなければ、やら、発達障害だと分かったから障害者枠で働くべきかやら、就労どうしようやら、病院でのカウンセリングやらなんやらで本当にメンタルに支障が出てしまうレベルで大変でした。
わたしは二つも併発してる障害者なのかと思って気持ちもかなり沈んで、しかもちょうど生理も重なってメンタルぶち壊れてしまって、診断されて数週間はあるイベントも重なって毎日叫び散らして独り言も異常なほど増えてひどい孤独感が襲って部屋で泣き叫びながら体を叩いたりしていました。
正直あの頃は思い出したくないほど惨めな日々でしたね。
切り替えようと思っても辛い思い出が甦って、後悔で塗りつぶされるんです。
でもきっとそんなことは周りの人にとってはどうでも良いのですよ。
発達障害とわかったからなんだ、不幸アピールか? 迷惑だからやめろって。
これはきっと、人の声じゃなくてわたしが自らに言っている言葉なのでしょう。
そんなにまず周りの人たちはそこまでわたしに興味ないと思います。笑
でも、こんなばかなわたしでも優しい子たちだから悲しませてしまったし傷つけてしまったろうなあなんて。
わたしでも不幸アピールがひどいのは分かっていて、なんでこんな落ち込んでしまうんだろうとも思うし、なんで分かってたはずなのにあのとき間違えたんだろうと自分を責めてしまいますし……。
せっかくメモしたものをなくしたりするし。
エヴァーノートに書いてたものをちゃんと話したかったなあ。
今だに残ってるけど、もう使う機会がないや。

しんどそうな姿は迷惑だから見せたくない、けれど辛すぎて耐えられない。
区別と差別は違うと言いつつも、障害と分かったら泣くなんて、矛盾しているのですよ。おかしいのかなあわたし。
けど、発達障害はやっぱり辛いです。
というか、発達障害と診断されてもされなくても症状自体は変わらないですからね。
わからないけれど、差別されている人たちは、阻害しないでほしい、自分の存在を認めてほしい、分かってほしい、困ってるんだ戦ってるんだ今ここで生きてるんだって、思ってる部分はあると思うのです。
少なくとも、わたしは思うんです。
けれど、もういっそ放っておいてくれ、とも思うこともあります。
ほんとに分かりません、気持ちが本当に難しくて。
でもやっぱり思うのは、日本の発達障害の人たちは周りの人たちに理解されずに誤解されて彷徨っているのかもしれないとは思います。
子育てのせいだ、とか、発達障害は治るんだ、とか、発達障害なんかない、とか、発達障害は医者が金儲けのために作ったものだ、とか様々な誤解があります。

たとえそうであったとしても、結局その症状に困って辛い人はどうなるのでしょうか。
争いあって、喧嘩して、当事者の権利は守られないまま、放置されたまま、困り感は残ったまま。
ひとりの人間としての悲しみ、発達障害という社会的立場としての悲しみを感じながら。
可哀想のエネルギーを使ってなにかの作品を作るってとても残酷なんだな。
なんか、笑いと感動、どっちかを選ぶって寂しい。
どっちも、とか、それではない何か、とかないのかな。と思ったりして。
終わったことなのに、後悔ばかり募る〜
。泣

発達障害と分かって、社会からの目線を感じて、なんとなくかわいそうのエネルギーの意味が分かりました。
社会的弱者やドロップアウトしてしまった人たちのメンタルって強い。
わたしの友人などを見ているとそう感じます。
友人は批判にさらされて生きてきたので、私なんかよりよっぽど強いし、大好きです。
そういった人たちはいつも批判にさらされて、誤解を受けて、笑われて、マウントを取られて生きているのですよね。
その友人、いつも私を助けてくれるんです。

去年のわたしも、今年のわたしも、バカに生きるのだろうなあ。笑

めちゃくちゃな文でした。では!