くれおの発達障害ブログ

ADHDと軽度ASDを併発。精神安定のために自分の考えをまとめたりします。発達障害の自分を見つめ直す雑記。

「助けさせてもらってる」当事者と非当事者の溝ゆえの葛藤

こんにちは、くれおです☺️

タイトル名ですが、これは療育を目指したいと思っている友人が教えてくれた言葉です。
友人は人と関わることが好きな性格です。人の役に立ちたいという強い思いがあり、作業療法士になりたいという願いを持っています。
私も人の役に立つととても嬉しい気持ちになりますが、人のためも結局自分の喜びのためであって自分のためでしかない、ということはいつも肝に免じています。
だから、見返りは期待したくありませんし、人のため人のためと相手に押し付け、勝手に失望して落胆する自分が憎い時があります。相手の「困った」を自分の喜びの搾取として使うのが恐ろしいのです。
だから人に優しくするのが怖くて、人と距離をとってしまうことがあります。

けれど、そんな私を救う言葉がありました。
「そういう立場の人がいるから自分の仕事ができる。自分は助けさせてもらってる」
友人が私にかけた言葉です。
なんでしょう、ハッとさせられました。
自分は搾取していると分かった上で、へりくだる。とても誠意を感じられますよね。
へりくだる大切さを感じました。
けれど友人は障害者の人たちに、どういう風な考え方で捉えていいかとても悩んでいました。

持論として、理性としては助ける人と助けられる人の間には上下はないと思っています。
助けが必要な立場の人がいるから、助けることができるのです。
助ける立場の人がいるから、助けられることができるのです。
お互い対等な関係なんです。
私の父は職業にも差はないと言っています。
いろんな仕事があって、みんな支え合って生きているから、上下なんて本当はないんです。その立場の人がいなかったら、社会は崩壊してしまいます。

だけど、実際に社会的弱者と呼ばれる人たちと関わる際には、すっごくすっごくデリケートに考えなきゃいけないんだって思います。
そう簡単に割り切ることができない。
私もその立場でした。


私は喋ると発達障害特有の我が強く出てしまって、思ったことをちゃんと伝えられず、我の強さだけで失言してしまいます。だから、書くことで失言する我の強さを抑えています。
その場で思ったことをつい喋ってしまい、そういったデリケートな部分にもガツガツ踏み入ってしまうのです。
自分の考えで助けられると思いたかった。
だから、喋るのが正直怖いのです。持論を語り優位性を感じることは時に人を傷つけ、自分を傷つけさせます。
持論を語り、人をやり込め、考えを押し付け、優位性を感じていると、周りに人がいなくなってしまうそうです。
だから、そういう人が少しでも少なくなってほしいです。お互い傷つかないために。

発達障害の私は、これから喋る時には周りにどう思われてもメモを用意して、「喋らなければいけないこと」を事細かに書いておくのが大切だと学びました。
私はメモを持ってくるのを忘れてしまったが故に、とても相手に悪いことをしてしまったのです。書いたのに間違って置いていってしまったんですよね。
本当のことなんて1つも喋れませんでした。相手を傷つけたのだから、加害者です。本当に反省しています。あんな過ちは二度としません。

当事者だから言えることってあると思うんです。
どれだけ理解したいと思っても、どうしようもなく当事者と当事者じゃないものとでは、大きな溝があるんです。
だから、分かり合えなくてもいい。
分かり合えないことからはじまる理解が一番なんです。
相手が大切だと思っている考えを大切にする。
近すぎると壊れてしまう。
だから、それだけでいい、そう思います。
社会的強者は社会的弱者に自分の考えは押し付けちゃいけないんだ、と思います。どうしたら助けられるかな?って、聴けば良いのです。そう思うんだね、ってただ受け入れれば良いのかもしれません。

私は発達障害という社会的弱者に置かれていますが、友人の「助けさせてもらってる」という言葉に救われた自分がいました。

でも、社会的弱者も、社会的強者も、どちらも味わったことのある私からすると、よく分からなくなってしまうのです。
お互い最小限傷つかないためには、どうしたら良いのでしょう。
でも、私は助けられると嬉しいです。
自分の立場を理解し、支援されると嬉しいです。
やっぱりお互い「助けさせてもらってる」のかもしれませんね。
お互いへりくだりあう。
だけど、相手にへりくだることを求めすぎない。
ただやりたいからやってるだけ。
そうしないと慢心が出てきてしまう。

答えを探すために、ひたすらさ迷い続けます。